壁の向こうが他人

アーバンシティの端っこから、こんばんは。egoです。

  

 

今日は、締め切りをそばの生地かってくらい伸ばしていた動画編集をやっています。

いや、これからやります、ごめんなさい。

 

 

今日は他人と空間の話をします。

 

egoは、一昨日くらいから、アトリエなのかセカンドハウスなのかよくわからない部屋を契約しました。といっても、ごく短期間ですが。

 

その部屋で過ごしていると、思うことがあります。

タイトル通り、壁の向こうは他人です。

 

世の中には、マンションなりホテルなり、

壁と天井でプライベートな生活空間が仕切られる構造の建物があります。

 

egoは昔から、その類の建物の中で長時間を過ごすのが得意ではありません。

なぜなら、そこには他人の息遣いや、一挙一動を感じざるを得ない環境があるからです。(不可避だと思っている)

 

 

マンションなんかに普段住まれている方は、egoが過敏すぎて、ガビーンかもしれませんが。

 

多分、人間があまり得意じゃないです。

 

あいさつするのも相当エネルギーいるので。

しかも、プライベートかつ限定されたシチュエーションや空間(マンションの廊下とか)であいさつとか。考えただけで恐ろしいです。

 

この場合は、あいさつという行為が恐ろしいのではなく、自分と他者が一つの空間に存在することによって、関係性に縛られる(この場合、ご近所さんという称号)ことがなにより怖いです。ego、逃げられませんので。

 

だから、年齢的に幼い頃から、ドア的なものを開く際は必ずのぞき穴をのぞきます。

ストレートにドア開けて人がいたら、最悪だからです。最悪どころじゃないよ・・・。


のぞいてみて、もし誰かが近くにいたら、今度はその人のことを少しでも把握しようとします。

どこに住んでる/滞在している、どんな人なのか。少しでも、情報を収集しようとします。少しでも心理的に優位に立ちたいんですかね・・・。

 

 

話が逸れてる気がします。

とにかく、あいさつに関してはストレスがメガンテ級ということです。

 

しかし、あいさつが重要なのは頭でわかっているので、

とりあえず頭下げとけば大事にならないだろうと、年上・年下・知人・他人問わず頭を下げる癖がついています。

 

うう・・・動画編集しないと・・・。今日はこのへんで。

 

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KETSUの穴

こんばんは、egoです。

 

突然ですが、この手記に読者はいないも同然です。読者がほとんどいないのであれば、読者をはじめから想定しないで、つらつらと書き綴ることにします。

 

正確には、「そうしたい」のです。

 

画面に向き合ってキーボードを叩き、"Publish"のボタンを押す瞬間、どうしても読まれることを想定してしまいますが。

 

おそらく、それが健全ですね。

 

惰性とカビ

 

惰性が焦燥感と自己否定を持ち寄って、

身動きが取れなくなって、

また惰性が生まれてしまうんです。

 

光いっぱいのバスルーム、

美しく磨き上げられたバスタブ、

しかし片隅には、

どうしても漂白しきれないカビがあるんです。

夜と恐怖

egoは、夜に恐ろしさを感じます。

 

 



 

 

夜、そこには、黒い靄が来ます。

 

黒い靄とは、みなさんのもとにも現れます。それは、思考と体を包み込みます。それはすりガラスの向こう側にいたり、物陰に隠れていて、じっとこちらを伺っています。

 

一つ前の手記でも触れましたが、egoは暗所恐怖症のきらいがあります。暗闇の類に恐怖を覚えます。

だから、夜に睡眠をとるよりも、昼に眠り込むことを好みます。日光が出ている間は絶対的な光があります。少なくとも、地球という惑星ではそうです。

 

夜が怖い理由は他にもあります。それは、夜が1日の帳尻合わせだからです。

2年以上、仕事の都合上、日付変更の瞬間を気にしなければいけませんでした。そんな生活パターンの上で過ごしてきました。今もなお、23:59には恐怖を覚えます。その1分間は、1日の締めくくり、すなわち1日の締め切りなので。もっとも、これは習慣に紐付いた恐怖ですが。

 

夜はやぱり怖いです。

 

 

 

 

死には至らない病

お久しぶりです。egoです。

 

長らくブログを更新していませんでしたが、生きていましたのであしからず。ブログを更新していなかった約5ヶ月間、ある大きな柵から開放されて羽をのばしたり、髪の毛をのばしたり、締め切りをのばしたりしていました。

 

 

特筆すべき近況報告は、約3ヶ月前から日常に暗所恐怖症のきらいが現れてきたことです。暗所に対する恐怖というと、人間ならば誰しも少なからず抱えている恐れとも考えられます。しかしながら、ただ暗闇が怖いわけではないという確信がありました。そこで、原因を様々考えてみたのですが、未だ結論は出ておらず。

恐らくですが、egoは暗闇とその他の脅威・恐怖を重ね合わせてしまっています。本来はそこにあるはずのないもの、現実的に考えるとありえないのですが、そのような概念やモノを暗闇の中に見てしまいます。一種の幻覚かもしれません。症状初期の頃は、部屋の灯りをすべて落として寝床に入る試みを行っていました。しかし、どうしても、動悸や冷や汗を伴うほど、心が動揺するのです。egoは元々、住環境に関しては神経質な面があるので、それも相まって完全な暗闇の中ではとても眠れたものではありません。少なくとも今は。

 

また、egoの精神状態は負のスパイラルに突入しています。かなり。最近に始まったことではないのですが、egoの「こうありたい姿」と「現実の姿」の乖離が激しいことがコアにあります。そのギャップが自分を苦しめることで、さらに腰が重くなり、適切な施行との距離がひらかれていくのです。

 さらに、egoは自分のクライシスに対して極端な考え方をしてしまう傾向があります。

そもそも、思考スタイルが極端である傾向があるので。自己以外の他者から発せられる言葉や評価、しぐさや素振りでさえも極端に受け取って考えてしまう、という。端的に言えば拡大解釈しがちと言えるかもしれません。当たり前かもしれませんが、極端な考え方ないし拡大解釈は非常にエネルギーを使います。他者から発せられる"何か"を考えているego、そんな自分にも嫌気がさす瞬間が訪れます。

 

だから、対人コミュニケーションが億劫になっていました。そもそも、昔から人付き合いは得意ではないです。引っ込み思案で人見知りな子供として育ち、広範囲に渡る社会生活や就職活動を経て、少しばかり"外向的"な人間に成り代わることを余儀なくされたにすぎません。一生変わらず独りでいることが楽です。それがいいことか悪いことかはわかりません。わかるからといって、極端にジャッジをすることはあえて控えたいです。

つらつらと書き綴っておりましたが、このような症状や傾向はお互いに相関し、日常生活の歯車をずらしていきます。そして、ずれ込んだ歯車はegoの内面をさらにかき乱し、負のスパイラルへと導いてしまいます。そこで、近日中に心療内科を受診したいと思います。これは宣言です。以前から心療内科の受診は数え切れないほど検討していました。その度に受診を思い留まるに至った原因は、自己との葛藤でした。egoの中では、いつも"なんらかの枠にはまりたがる自分"と"枠にはめられたくない自分"が戦っています。診断名というレッテルで、自己規定を行いたいのではないか?と自問自答を繰り返していました。しかしながら、そもそも、なぜ自問自答をしなくてはいけないのか?明白です。自分がグレーの状態であるからです。白黒はっきりさせればいいのではないですか。少なくともegoはそう考えました。

 

 

最後になりますが、 

以後、このブログは日記としての役割を兼任してもらいたいと思います。日記を書いていると、なんとなくですが、思考が整理されて気が紛れるので。